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일본어 설교 원고 샘플 7 <キリストの臨在を實現させるリアリティある言葉とは(그리스도의 임재를 실
작성자 : 운영자(kylggc@hanmail.net)  작성일 : 2009-04-18   조회수 : 1325

キリストの臨在を実現させるリアリティある言葉とは(그리스도의 임재를 실현시키는 리얼리티 있는 말씀이란?) / 2ヨハネ1:7(요이1:7)

キリストの臨在を実現させるリアリティある言葉とは(그리스도의 임재를 실현시키는 리얼리티 있는 말씀이란?)
2ヨハネ1:7(요이1:7)





キリストの臨在を実現させるリアリティある言葉とは
2004年1月7日
北川一明



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【目次】

Ⅰ.われわれの説教の担う課題(宣言のリアリティ)
Ⅱ.説教の担うリアリティ
Ⅲ.説教の隠喩性
Ⅳ.宣言のリアリティにかかわる説教者論

引用メーリング・リスト一覧
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合理的証言と経験的宣言
キリストの臨在を実現させるリアリティある言葉とは




 クラドック著『権威なき者のごとく』(注1)に対して、説教塾メーリング・リストでは帰納的/演繹的方法の議論が現在の説教の問題に的確に対応しているものか疑問が呈されつつ(注2)、それと並行してそれぞれの必要性を確認する作業がなされていたようです(注3)。
 説教に証言と宣言という二つの要素を見た場合、帰納的方法と演繹的方法とが複雑に絡み合いながらそれぞれの役割を担うように思えます。すると、どちらかを選択することでは解決し得ないのかもしれません。以下で整理してみました。

Ⅰ.われわれの説教の担う課題(宣言のリアリティ)

 A.説教者が「神の言葉を聞く」とは
 説教者は、聖書を通して神の言葉に触れ(注4)、それを礼拝会衆に取り次ぎます。
 説教者が書斎で「神の言葉を聞いた」とは、いかなる状態かといえば; 聖書を読む中で、正統教理がリアリティをもって受け入れられた状態とすることが出来るでしょう。聖書の内容が、自己の経験と照らして何らかのリアリティを獲得した時、説教者は「神の言葉を聞いた」つもりになります。

 B.説教の二つの役割(証言と宣言)
 説教者が聞いた神の言葉を取り次ぐことが、説教者の役割でしょう。
 説教とは、かつてどこかで「聖書の説き明かしによってキリストの現臨を実現するものである」と定義しました(注5)。それは目的論的定義であって、実際の作り方としては、説教とは「神の言葉に触れた感動(リアリティ)を伝えること」のような気がしています。
 キリスト臨在のリアリティがなければ、説教は論理的な説明になります(注6)。説教が「死ぬほど正確でも死ぬほど退屈な話(注7)」という批判を受けるのも、そのような説教でしょう。キリスト臨在のリアリティを支えるものは、説教の内の「証言性」であると思っています。
 しかし説教者が神からお預かりした言葉は、ただ証言であるだけでなく、礼拝会衆に対する断罪と赦罪の宣言の面があります。
 それがなければ、説教は「証し」になります。すなわち、キリストの臨在のリアリティが、ただ説教壇上の人物だけに留まり、礼拝会衆を変える力にはなりません(注8)。
 ここで想定している「証し観」では、証しを聞いた者は、その証しを自己に適用して自己に対する断罪、赦罪の宣言を改めて神から直接聞き直すことになります。説教の役割をその「証し」の範囲に限定することが必ずしも悪いものとは言えないかもしれません。説教が「証し」に留まることの是非は本小論の範囲を超える、「説教とは何か」という問題です。

 C.宣言のリアリティ
 ただ、説教は「証し」に留まらず「宣言」を含むという説教論に立つ場合にも、礼拝会衆各個も、神から直接に御言葉を聞く体験をすることがあります。聖書の文字にリアリティを感じるのは、説教者だけに限りません。
 それにもかかわらず、教会の立てた説教者が神の言葉の宣言をします。その中では、言語形式の上ではは会衆は牧師から断罪の言葉を聞かされ、また赦罪を宣言されます。
 教会の立てた説教者のみが宣言をする根拠を、サクラメンタルな権威付与に求めることは、もちろん妥当性があるでしょう(注9)。
 ただし権威論では、「宣言」のリアリティについての問題が、何ら解決しません(注10)。
 説教者が、断罪と赦罪の福音を受け取った筋道を解説する際、それにリアリティを持たせるためには帰納的な方法が有効でしょう。
 その際説教者が断罪または赦罪の言葉を神から受け取ったことについては(すなわち説教の証言性においては)リアリティをもった解説が行なわれます。しかし、その断罪と赦罪を礼拝会衆に適用する部分で(すなわち説教の宣言性において)、神でなくその説教者がする「宣言」のリアリティが失われていることが起こり得ます。
 そうした証言性と宣言性の乖離を、説教者権威論は克服しません(注11)。

 たとえば;
 リアリティをもって証言し、聴衆の関心を惹き、また信頼を得た後に、その証言とは別個に宣言を為すのならば、聴衆を誤魔化すことは出来るでしょう。それは、説教者が証言に十分に力を注いだことの報酬です。
 しかしそれでは、宣言は、「断罪と謝罪(すなわち贖罪)の教理」をただ力強い言い方で説明した以上のものにななりません。それまでの証言が、それとは無関係な宣言を「何となく納得させる」ための「演出」であったことになります。

 D.説教の課題
 証言は、「人間の言葉」で為すものです。説教で神の言葉である必要があるのは、断罪と謝罪の宣言です。
 その宣言を人間である説教者が語る際、態度や言葉遣いで荘厳さを演出することは、補助的手段としては否定する必要はないかもしれません。ただ、権威の根拠をそうした外的演出にのみ依存しているに過ぎないならば、神の権威を僭称していると言わざるを得ません。
 かといって、権威主義的な態度を排してひたすら聴衆に近付いても、ただ説教者個人が神の言葉と触れたリアリティを伝えるに留まっている場合が多くあります。
 われわれ説教者を悩ませている説教の課題は、説教の証言性ではなく宣言性についてのリアリティです(注12)。すなわち、「あなたの罪が赦された」と発話することが、神の言葉としてのリアリティを獲得するかどうか(リアリティのない説教になる場合が多い)ということが、われわれの説教の問題でしょう。
 そこで、宣言のリアリティをどこから獲得するかについて;
 次のⅡ章で「神の言葉としての宣言」は「人間の言葉としての証言」を通して為されるという視座から、説教者個人の体験を述べることの意味を述べます。
 また、説教者が礼拝会衆に先行して神の言葉に触れることについては、「サクラメンタルな権威付与」ではなく「説教者の共同体・経験」という視点から考えました。不十分ながら、その説教者論の導入を最終のⅣ章で述べます。
 その前に、Ⅲ章では帰納的説教が担う説教の隠喩性について述べます。説教者個人の体験を具体的に述べる実際の説教形態を想定した時、帰納的に証言された説教であっても、権威主義的な印象も与えれば/また神の言葉として礼拝会衆に届く場合もあるようです。説教の中で例示されるいわゆる「体験談」が、教理を説明するためでなく真理のイメージを隠喩的に担う時に、礼拝会衆に宣言のリアリティが届くように思えるからです。


Ⅱ.説教の担うリアリティ

 A.説教者個人が読んだリアリティ
 説教者が、書斎で断罪/赦罪の「宣言」的な教理を、「証言」的な体験からリアリティをもって受け取った場合、説教者は、それをそのままの筋道で提示することは可能です。それが「帰納的説教」と言われるものと理解しています。
 前章で述べたことの言い換えになりますが; 「帰納的説教」と称して福音に行き当たった過程を示すことは、説教者が聖書から読み出した「謝罪と赦罪の教理」のリアリティを、かなりな程度、保証します。その点で帰納的説教は「面白い」でしょう。
 しかしそれは、説教者が礼拝会衆に対して断罪と赦罪を宣言する、その発話のリアリティを保証するとは限りません。
 それでも「帰納的説教」が評価されるべきです。それは、宣言が証言と無関係になされるのではないからです。
 神の「宣言」は、説教者の「証言」とは断絶はあるもものの、それでも人間の証言を通し、証言と関係づけられた中でなされるものと思われます。つまり、「証言」と「宣言」はいわば有機的な関係にあり、明確に二者に分割することは出来ないということです。
 ただ「宣言」のリアリティは、説教者が信徒として断罪と赦罪をリアリティをもって受け取った体験を証言的に示す(帰納的に例示する)ことの先にあるように思えます。個人の体験を述べるに留まっては、証言のリアリティに留まり、宣言のリアリティに到達しないということです。

 B.正しい証言:体験の例示でなく合理的な説明としての証言
 「証言」は、証言者の体験に基づきます。その点では帰納的であらざるを得ません。しかし経験的、帰納的な方法は、証言者の読み出しの時点でなされるべきものであって、それを説教に持ち込むことは不適切に思えます。
 体験を個人の体験のままで述べた帰納的説教とは、たとえば「自己の御利益体験」や「罰を受けた不信仰者を例示して信仰を宣伝する」ような説教が考えられます。
 そうした説教は、自我意識と教育水準とが極端に低い対象に対してならば有効かもしれません(そうした説教観の是非は、この小論の範囲を超える問題ですが、たとえば教会学校で幼児に対してリアリティをもって宣言できるかもしれません)。しかし(教育水準の高い)現代日本の一般大衆を対象とした説教では、そうしたやり方は非効率です。
 われわれの証言は不可視的な事柄にかかわることであり、さらに信仰という「(一般的に言えば)心理的」なものです。そこで、証言者の体験が証言される際、その体験は普遍化、一般化されなければ説得力を持たず、「証拠」を提示したことになりません。
 そこで体験の証言は、個人の体験が合理的に分析され、聴衆各自に共通の経験に昇華されなければなりません。そこで、証言者の体験を、体験的にではなく合理的、分析的に述べることが必要です。

 C.正しい宣言:一方的な宣告でなく経験的な例示としての宣言
 一方断罪、謝罪の「宣言」は、説教者に与えられた使命です。そこで、始めに語るべき教理的主題(断罪なり謝罪なりの内容)があり、聞き手の状況にかかわらずそれが述べられなければならない点で、「宣言」は演繹的とも言えます。
 けれども、その宣言の権威はわれわれ人間に内在するものではなく、外来のものです。そこで宣言した内容の真理性は、われわれ人間の概念体系の中では証明し得ません。言語活動としての説教で、神の権威に依拠しているつもりで説教者が説明しても、それは言いっ放しの決めつけであって、説得力を持ちません。
 礼拝説教を、単なる「教理の学びの場」とし、実生活で熱心に信仰のリアリティを追求する教会訓練が可能ならば、そうした説教でも伝道可能です(そうした説教観の是非は、この小論の範囲を超える問題です)。しかし敬虔さを大幅に失った現代日本クリスチャンのライフ・スタイルでは、そのような説教は教勢を減退させることになると思います。
 信仰とは、その人間の概念体系の外から来るものを「見ないで信じる」という要素を持っています。しかしそれだけでは、信仰が単なる思想、または人間の側の「(都合による)決断」としての「行為」になってしまいます。信仰には、「(実感のないまま)見ないで信じる」面ばかりでなく、リアリティを得てひれ伏す(ひれ伏させられる)面があるはずです。
 だから、福音の宣言は、宣言である故にこそ、生身のリアリティを持ったものでなければならないと願っているのです。
 神の宣言の真理性は、人間の概念体系に拠る言葉の概念的意味から合理的に論証することはできません。したがって、宣言の真理性を聴衆にリアリティをもって確信させるものは、ア・ポステオリな体験に拠らざるを得ません。

 D.もっとダイナミックな説教を
 一般には、分析的、合理的な判断が演繹的、経験的な判断は帰納的である場合が多いでしょう。しかし以上のように、説教の担うリアリティとは、分析的な証言性と、経験的な宣言性という、不安定に捻れた言語行為の上に存立するように思えるのです。
 「不安定」を肯定的に表現すれば、「有機的」であり「ダイナミック」であるということです。
 証言が合理的、分析的である時に、その証言は普遍性を得て神の宣言を準備します。そして宣言が個別具体的、経験的である時に、そうした歴史上の個別の体験が、神の永遠の救済行為との接点となるのです。


Ⅲ.説教の隠喩性

 A.リアリティを持つ宣言の言表形態
 上で述べたことを実際の説教宣言の語り方になぞらると;
 「あなたの罪は赦された」と言うだけでは、リアリティを担いません。どうしても「……だから、あなたの罪は赦された」と言わねばなりません。そして、「……だから」の部分で説得力がある説教になるかが決まるのでしょう。
 これを、「御言葉にはこうあるのだから(あなたの罪は赦された)」では、会衆が逐語霊感説にリアリティを感じている場合を除けば、説得力はありません。むしろ「経験的にこうだったから、あなたの罪は赦された、という聖書の言葉通りであった」と経験例示的にならざるをえません(注13)。

 B.帰納的方法が発揮されるべき場所
 「経験的にこうだったから」と言って示す内容は、「体験談」です。
 「体験談」が個人の体験に留まり、聞き手の共同経験にまで昇華できていないのならば、説教としては「無駄話」であるか、良くてせいぜい「証し」です。
 「体験談」が、教理を分かり易く解説するために利用されるのならば、多くは単に「分かり易い説明」にしかならず、良くてせいぜい「証言性」のリアリティを保証するに留まるでしょう(注14)。宣言のリアリティは、宣言であるが故に、解説には拠りません。
 そこで「体験談」が宣言のリアリティを担う唯一の場合とは、説教者の個人体験が、ある象徴性を担っていて、その象徴性が礼拝共同体各員を神の言葉に触れさせることになるのだと思います。

 C.説教の隠喩性
 この象徴性を担う言表を「隠喩」とすれば、説教は隠喩である必然性があるように思えます。
 少なくとも佐藤信夫『レトリック感覚』(注15)までの時点では、修辞学界で隠喩と直喩の明確な分別は出来ていなかったようです。一般には、「これは比喩である」という説明が入るものを「直喩」、説明を省くものを「隠喩」と言います。
 けれどもそのような表現形式でなく、表現しているものの意図について、言い換えによって理解を容易にするために語られているものであれば、「~のようだ」と付していなくても、「隠喩」と言うには明瞭過ぎます。比喩的表現が、言い換え説明のために用いられるのではなく、言表不能の体験を象徴イメージに託して言語を超えて伝えようとすることを「隠喩」と言うべきと思います(注16)。
 その意味で、説教が隠喩である時、宣言がリアリティを持つ、ただしその宣言は、体験的、例示的な体裁をとっていると思うのです。

 D.説教の定義
 そして説教が隠喩的である以上、説教は説教者が「意図した内容」を伝えるものとしただけでは説教の本質からずれているように思えます。説教とは、説教者の理解したことを伝達することではなく、説教者に対して起こっていることを、説教者としての権威で以て礼拝会衆に移植することです(注17)。

Ⅳ.宣言のリアリティにかかわる説教者論
 A.説教者は会衆に先行して真理に触れるのか
 そこで説教者は、とにかく福音を「体験」しなければなりません。言い換えれば、聖書を通して神の言葉を聞かなければならず、神的真理に触れなければなりません。
 その際、説教者が会衆に先行して真理に触れるかと言えば、そうではないはずです。聖霊の自由な働きによって、説教者が触れることの出来なかった真理に、会衆が礼拝の中で触れることは十分にあり得ます。
 「福音を個人が体験する」という点では、説教者も会衆も、また異邦人でさえ、同じスタートラインに立っています。

 B.説教職務の意味
 それでも説教者が宣言の職務を神から託されていることについて;
 「福音を個人が体験する」点では、説教者に何の先行性もないとしても、説教者の職務として説教者が会衆に先行していることが、あるはずです。
 そのひとつは、個人の体験を共同体の経験まで普遍化させることにおいて、牧者の務めを託されている者としての先行性ではないでしょうか。
 すなわち、説教者は教会の牧者として、説教者個人の体験を教会共同体の経験として経験し直し、また教会員個人の体験をも自己と自教会の経験に取り込むことが相対的にし易い立場にあります。
 権威を付与された者としてでなく、教会に仕える務めを与えられた者として、礼拝共同体構成員個人の体験を共同体全体の経験に取り込むことが、説教中に語る神の言葉の宣言に、その共同体内でのリアリティを付与することになると思うのです。

 C.黙想作業でなすべきこと
 こうした意味で、黙想(聖書の言葉から何らかのリアリティをもって贖罪教理を受け取り直す)作業において、「その教会が見えてこない」と十分な黙想とは言えないのは当然です。
 われわれが黙想でなすべきことは、個人としてでなく教会共同体として読むということです。すなわち、「書斎で独りぼっち」で聖書を読むのでなく、「教会の中の書斎」で聖書を読むことでしょう。
 ただし、「教会の中の書斎」とは「書斎で独りぼっち」と何が違うか、具体的に言われなければなりません。<<次日曜日の礼拝での会衆の反応が、黙想の段階で、既に黙想に影響を与えている>>または<<それが霊的な交わりである>>との表現は、それを隠喩的に示唆しようとしたものです(注18)。しかし象徴すべき事柄を十分にイメージした隠喩にはなっていません。
 その意味で、本説教者論は、入り口に過ぎません。









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注1 フレッド・B・クラドック著、平野克己訳『権威なき者のごとく』教文館、2002年

注2 吉村和雄 メーリン・グリストindex#71
 ひとつの問題は、いまのわたしたちの(というより、わたしの)説教の問題は、演繹的か帰納的かという問をたてることによって浮かび上がってくるものだろうか、ということです。もっと別なところから出発した方が、わたしたちの現実に即しているのではないか、ということです。

注3 藤原導雄『フレッド・クラドックの「帰納的説教」論について』http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/library/Craddock.htm
 ただ、帰納的説教をあまりにも強調する反面、演繹的説教を否定的にしか描いていないのは残念である。本書が指摘するような短所も演繹的説教に無いわけではないが、その用い方によっては演繹的説教もまた帰納的説教と同様に有効な説教手法として十分に機能するからである。帰納的説教は万能ではなく、聖書テキストに対し、また聴衆に対し、いつでも適合可能であるとは限らない。演繹的説教も帰納的説教も説教手法における選択肢の一つとして、それぞれに正当な位置を与えられるべきであると評者は理解する。

注4 青木豊 メーリング・リストindex#85
 神の言葉の出来事は、先ず、説教準備における説教者において起こり、その時、説教者の心は動かされ、更に言えば「内に燃え」、その出来事の自分も当事者となっている「証人」として、説教を語るのだと私は思っています。そうなると、黙想において大事なのは「説教者の心(感情と言っても良いと思います)が動かされる」ということだと思うのです。「自分自身の心(感情)の動き」が、黙想の大事な手がかりではないかと私は考えているのです。

注5 北川一明『説教とは説教者の自己を表現する\\\"文学\\\"である』http://www.ssas.co.jp/kabunushi/kyokai/pr_ex/juku02.htm

注6, 注12 吉村和雄 メーリン・グリストindex#71
 わたしが、自分と自分のまわりでなされている説教を聞きながら、一番問題だと思っているのは、聞き手の心の中に何の感情も引き起こさない言葉が多すぎる、ということです。
(中略)
そういう場合に、わたしがしやすいことは、説明です。神の愛とは何か、救いとは何か、罪の贖いとは、罪の赦しとは、そういうことを聴き手にわかるように説明を始めるのです。しかし、これはたいてい失敗します。何故なら、説明の言葉は、聴き手の頭の中には入っても、心の中には入らないからです。心に入らなかった言葉は、聴き手の生活に何の変化も起こしません。

注7 藤原道夫 メーリング・リストindex\\\"128
 聖書が「神と人との関係」という「信仰」を語っているとすれば(確かにその通りですが)、両者の「関係」を無視してそれぞれを独立的に語ることはできないのではないかと思ったのです。
 両者を切り離して、神のみについて、聖書のみについて、語るときに聴衆とは縁遠い別世界の話し、死ぬほど正確でも死ぬほど退屈なものに説教は「成り上がる」のではないでしょうか。真の信仰の姿を捉えて語っていないからです。

注8 北川一明『説教にはカール・バルトが必要である』http://sikokusekkyojuku.hp.infoseek.co.jp/shiryo/KzKt03_4.htm#ichiB
 しかし聴衆は、最も肯定的な評価をしたひとでさえ、「この先生」を遠く眺めるだけに終わっていたのです。

注9 吉村和雄 メーリング・リストindex#133
 説教者が聴き手より先に真理をもっている、ということは、否定されるべきことなのでしょうか。…(中略)…神さまが、わたしたち説教者に向かって、「わたしの愛する教会員たちに、この言葉を伝えて欲しい」と語って、その言葉を「預けて」くださったのです。それが現実です。

注10 北川一明『水戸黄門と暴れん坊将軍の喩え』http://www.geocities.jp/kazuaki_kitagawa/page10/page14/k_14_001.htm#pagetop
 ところが今や、世は「就職先がないから大学院に残る」という時代です。東西の大学神学部も、偏差値が低くて入りやすい学校にランクされています。今や牧師とは「偏差値が低いひと」です。さらに、牧師の言葉にひれ伏すひとの中には地元の名士も少なくなりました。
 そういう環境では、牧師さんが「この紋所が目に入らぬか」式の「力強い福音の宣言」をしたら、教会員はかえってしらけ、求道者の前で恥ずかしく感じる……ことも、あるかもしれません。

注11 北川一明 メーリング・リストindex#116
 しかし、真理を語る説教を「偉そー」と言ってしまうと、説教が出来なくなってしまいます。でも「説教をする」のが目的じゃーありません。説教が出来なければ、説教をやめればいーのです。やめちゃえ、やめちゃえ……
 ……とゆー訳でわれわれは「説教が出来ない」とゆー危機に立っているのではないかと思うのです。

注12 注6参照


注13 北川一明 メーリング・リストindex#65
 山口隆康東神大教授が「説教における引用の問題」『神学54号(教文館)』で、ヴァインリヒを引用して現在時制で語るのは論評形式過去時制で語るのは物語り形式と言ってましたけど、そー言えば「だって、こうなんだから(現在形-演繹的)」「だって、こうだったんだもん(過去形-帰納的)」で、表現は偉そーだろーが謙虚だろーが、前者は「何でだよ~」と思うし、後者は「そーかよ~」と思うヨなァ……と感じた次第でした。

注14 北川一明 メーリング・リストindex#135
 帰納的な方法は、「何で俺がこんな所に居ていーの?……良いんだ!」という、真理を受け取るために用いられたときに本領が発揮されるだろうと思うのです。それが(杉本先生のご指摘に従がうならば、多分『足の臭いの例』よりも適切な箇所が挙げられるはずです申し訳ないですが)、「足の臭いの例」などでは、帰納的な方法が「理屈を分かりやすく伝えること」において発揮されているように感じられたのです。

注15 佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫、1992年

注16 平野克己 メーリング・リストindex#32(index#にて訂正した文言に従って書き替えてあります)
 リシャー先生から学んだこと――これは、リクールの考え方ですが――のひとつは、説教におけるイラストレーションとメタファーとはまったく別な機能を果たすものである、という考え方です。イラストレーションとは、ある事柄をわかりやすくするために、聴衆に身近な類似例を挙げることであるのに対し、メタファーとは、類似例ではなく、まったく違うイメージをぶつけることによって、新しい意味をつくり出すことであるとされます。イラストレーションは説明をするのに対し、メタファーは創造するのです。

注17 以下のメーリング・リストに反対;
平野克己 メーリング・リストindex#42 : そこから先、「聞き手の側」に不如意に起こることについては、ぼくたちの努力の範疇の外側のことでしょう。この「説教の現象学」とでも言うべき、説教において語り手の意図を超えて(意図とずれて)起こることについては、また別の項目で考えるべきではないでしょうか。

注18 北川一明『もっとダイナミックな説教論を』

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